第一回慶早戦に出場した両軍メンバー
明治二十年代、勃興間もない学生スポーツはたちまち隆盛を誇った。試合を観戦する学生、市民らの興奮はしばしば過熱し、一高と東京高商のレガッタが混乱のため中止されたり、野球場で一高生が対戦相手の明治学院応援席に投石し外人教師が負傷するなど、あいついで芳しからぬ事件が起きた。
試合場に集う群衆を統制し、混乱を回避すること、観衆の声をひとつにまとめ選手らを鼓舞激励するとともに観客たちも楽しめる効果的な応援をおこなうこと―それが学生スポーツに課せられた大きな課題となった。
慶早戦のきっかけとなった早稲田からの挑戦状
野球の慶早戦が三田綱町球場ではじめておこなわれたのは明治三十六年(一九〇三)である。翌年、それまで学生野球の王者といわれていた一高野球部を両校とも破り、春秋の慶早戦は文字通り野球界の頂点を決する場として衆目を集めた。
明治三十八年(一九〇五)秋、両校応援席の熱気が沸騰した。十月二十八日、早稲田運動場においておこなわれた第一試合は、5−0で本塾が完勝。それを受けて十一月八日に三田綱町グラウンドで挙行された第二試合は、0−0のまま緊迫した投手戦がつづいていた。突如運動場に異変が起きたのは八回の表、まさに早稲田の攻撃がはじまろうとする瞬間であった。以下、試合翌日の「時事新報」の記事を引用する。
唯見れば兼て用意やありけん、階段に陣取りたる慶軍の応援者、一端より徐々に服を脱し行けり。見れば始めよりKOの二字を現すべく陣取り居たる者にて、黒き服の間に正しく白き襯シャツ衣にて二字を現出したるは妙案と云ふべく、拍手起る間に立現れしは早軍の泉谷なり……。
すなわち、観客席の端からあらかじめ決められた塾生が次々と学生服を脱ぎ、慶應応援団はみごとスタンドに黒地に白く「KO」の人文字を作ったのである。それ以前にも一高との野球試合で赤い小旗を振って応援したとの記録があるが、この人文字こそは慶應義塾の組織だった応援活動の華やかな幕開けといえよう。ただし、試合は九回の表に早稲田が決勝点をあげ、1−0で塾は敗退した。さらに四日後の第三戦、人文字に負けじと早稲田の応援席は「WU」と白抜きした海老茶色の小旗を振った。これは、前年に早稲田大学野球部が米国遠征したときに、現地の関係者が作った応援器具を野球部が土産に持ち帰ったものであった。第三戦は延長十一回のあげく、3−2で早稲田が勝利を収めた。
翌明治三十九年年の秋、両校応援団の興奮は最高潮に達した。塾生は紫色の三角旗を打ち振り、「ワシントン頌徳歌」のメロディーで応援歌を熱唱した。
天は晴れたり気は澄みぬ
自尊の旗風吹き靡く
城南健児の血は迸ほとばしり
茲ここに立ちたる野球団
ララ慶應 ララ慶應
慶應 慶應 慶應
勝利を告ぐる鬨ときの声
天下の粋とぞ仰がれて
三田山上に秋月高く
輝く選手がその勲(いさお)
ララ慶應 ララ慶應
慶應 慶應 慶應
自尊の旗風吹き靡く
城南健児の血は迸ほとばしり
茲ここに立ちたる野球団
ララ慶應 ララ慶應
慶應 慶應 慶應
勝利を告ぐる鬨ときの声
天下の粋とぞ仰がれて
三田山上に秋月高く
輝く選手がその勲(いさお)
ララ慶應 ララ慶應
慶應 慶應 慶應
第一試合、早稲田のグランドを埋めた大観衆の見守るなか、試合は慶應がみごと勝利。意気上がる塾生たちは早稲田の創立者大隈重信伯(当時)の自宅前で万歳三唱し、神楽坂を行進して帰った。つづく綱町での第二試合は早稲田が慶應を完封、過日の雪辱とばかり早大応援団は福澤先生宅の前で万歳三唱を叫んだ。つづく第三戦は十一月十一日に予定されていた。試合前日の興奮を当時三田にあった普通部の生徒だった獅子文六(作家)は後年「早慶戦」と題する随筆にこう綴っている。
……決勝戦を前にして、大熱狂が始まった。私たちは教室へはいっ ても、大学部応援団幹部が呼びにきて、運動場に集まれという。先生たちも昂奮して、授業は休みだという。紫地にKの字を白く抜いた小旗を持って、朝から応援の練習である。私たち少年の心にも、モクモクと敵愾心(てきがいしん)が高まり、何としても早稲田に勝たねばならんと、まったく戦争が始まったような気分だった。
授業が手につかないだけでなく、早稲田の学生が短刀をふところに綱町グラウンドに偵察に来たとか、塾の剣道部員が竹刀を携えて応援に臨む予定である--- などと不穏な噂が飛び交い、不測の事態を恐れた両校当局が夜を徹して会議をおこなった結果、第三戦は中止と決定した。だが、慶早戦中止を承服しない学生も多数いたため、塾内は騒然たる空気に包まれ、授業もおこなわれなかった。十三日に綱町グラウンドで学生大会がひらかれ、試合開催推進派、中止派それぞれの教員、塾生が意見を述べた。最後に塾長の鎌田栄吉が「人は馬を鞭打ちて進むとともに、また手綱にて引止むるの勇を要す」と訴え、事態はようやく収束した。
以降、早稲田の野球部からあらためて挑戦状が来ても慶應側は応ぜず、ついに早稲田が慶應に絶縁状を送りつけ……といった経緯で、じつに足かけ二十年のあいだ野球の慶早戦はおこなわれなかった。
時代が大正に移り、明治大学野球部が声をかけて、慶・早・明の三大学リーグが結成された。さらに、法政、立教、東大が逐次参加し、大正十四年(一九二五)に現在の六大学リーグの基礎が出来上がる。それでも、リーグ戦といいながら慶應と早稲田の試合はずっとおこなわれない変則的状態がつづいた。そこで、慶早両校のかたくなな態度に業を煮やした明治大学野球部の役員が、このまま慶早戦をおこなわないのなら現行の六大学リーグを解消して新リーグを結成する---との申し入れをおこない、両校野球部はようやくわだかまりを捨てる決意をした。こうして同年の秋、慶早戦が復活した。 六大学リーグの成立、慶早戦の復活、明治神宮野球場の竣工など、大正の末から昭和の初年にかけて野球部と応援団にとっての節目がつづく。その時期、腰本寿監督の采配のもと塾野球部はつねにリーグ戦の上位を占めた。だが、せっかく復活した慶早戦にどうしても勝てない。画竜点睛を欠く気分の果てに、やがて応援席の空気をいやましに昂揚させる最大の節目が訪れる。それは昭和二年(一九二七)、応援歌『若き血』の誕生であった。
明治39年慶早戦第2回戦