戦前の応援団と応援部(明治・大正〜昭和19年)

『若き血』の誕生


 一九二六年の末、元号が大正から昭和へと変わる。

 当時まだ応援部は正規の学生団体でなく、野球シーズンになると各学会や体育会の役員が臨時に自治統制委員会を組織して切符の手配や入場整理にあたり、そのうち何人かが応援指導をおこなった。応援の方法は「ヒップ ヒップ フレー」などの声援と『天は晴れたり』の合唱に終始し、えてして興奮のあまり相手校を侮辱するような粗野な野次が飛び交っていたので、学生らしい爽やかで統率のとれた応援を望む声が塾の教職員や卒業生たちのあいだからあがっていた。

 昭和の新風のもと、なんとしても慶早戦に勝ちたい---そんな 思いで予科会の塾生たちが新しい応援歌の制作を発議した。慶早戦休止の間に早稲田大学には『都の西北』が生まれており、「ワセダ ワセダ ワセダ ワセダ……」 と荘重なリフレインがグラウンドにこだまするとなんとも分が悪い。敵の名曲を打ち破る名曲が塾にも必要であった。

 予科会幹事らは新応援歌の制作を塾員の音楽評論家・野村光一に相談した。野村は発足したばかりのJOAK(東京放送局、現在のNHK)音楽部の嘱託だった堀内敬三を推薦し、予科会常任委員の纐纈忠行、矢部勝昌、山田有三の三名を愛宕山のJOAKに連れていき堀内に引き合わせた。昭和二年(一九二七)十月十八日のことである。

 当時、堀内敬三(一八九七・一九八三)は三十歳の誕生日を目前にした新進気鋭の音楽家であった。東京神田の浅田飴本舗の三男で、東京高等師範附属中学(現在の筑波大附属高校)在学中に歌劇『カルメン』などの訳詞に手を染めた早熟な音楽少年であった。大正六年から米国ミシガン大学、マサチューセッツ工科大学大学院に留学。専攻は機械工学であったが、作曲家E・V・ムーアに師事し、ジャズや編曲法についての豊富な知識を得て大正十二年に帰国した。帰国後はJOAKのほか松竹の音楽監督などをつとめ、のちには音楽之友社を設立した。『冬の星座』『蒲田行進曲』など著名な訳詞作品が多数ある。太平洋戦争後はラジオ番組『話の泉』のレギュラー出演者として活躍し、洒脱(しゃだつ)な才人として人々の胸にその名を刻んだ。

 堀内は予科会幹事の依頼を快諾した。じつはそれまで訳詞、編曲の経験は数々あったが、まったくオリジナルの歌を創りあげるのは彼にとってはじめての体験であった。当時「哲学する者」「思索する者」といった言葉が流行していたので、「若き血に燃ゆる者」という言葉がひらめいた。予科会幹事の願いは『都の西北』を凌駕(りょうが)する歌というものだったので、堀内もそれを充分意識し、『都の西北』より狭い音域で誰でも歌いやすいように留意し、荘重な『都の西北』とは対照的に軽快な二拍子にすることにした。さらに、試合の状況に応じて何回でもくりかえして歌うことのできるよう、メロディーの末尾を完結型でなく駆けあがるような旋律にし、詞は一番だけにした。

 初のオリジナル曲作りに精魂こめた堀内は、依頼からわずか四日後の二十二日に譜面を予科会幹事に渡した。慶早戦は十一月六日で、練習期間は二週間しかない。さっそく自治統制委員会が三田の大ホールに塾生を集め、ワグネル・ソサィエティの若きOBで堀内とも旧知の菊池雙二郎がピアノを弾いて指導したが、どうもうまくいかない。



「若き血」看板

 今日では応援歌の古典ともいうべき『若き血』だが、当時最先端の洋楽を熟知していた堀内の作ったメロディーは、昭和初年の日本人にとってきわめて斬新なものであった。まず、七五調の韻律にとらわれない破調のリズムである。また「常にあたらし」の部分は音符では「ドシラシドレシ」だが、いわゆるヨナ抜き音階(ファとシを使わない日本的な音階)に慣れた者にはどうしてもうまく歌えない。



増永丈夫

 そこで普通部四年生で歌唱力に定評のあった増永丈夫(のちの歌手・藤山一郎)が歌唱指導をすることになった。四小節ずつくりかえし練習するうちになんとか格好がついてきたが、先輩に対しても遠慮なくダメ出しをする増永の態度に腹を立てた普通部五年生が彼を校舎の裏に呼び出して鉄拳制裁をくわえた。殴られた増永少年は鼻血を出し、これが本当の「若き血」だ---とは、歌唱指導につきあった菊池が半世紀を経たのちに酒席でしばしば口にしていた逸話である。ちなみに、藤山一郎は『若き血』を歌う際、つねに「りくのおうじゃ」と濁らず「りくのおうしゃ」と歌いつづけ、それが正しいのだと生前語っていた。

 さて、いよいよ慶早戦本番の日、天気は快晴。二時七分に試合ははじまった。

 早稲田側の応援席では羊羹色の羽織袴をつけて手に木刀を持った十数名の学生が応援のリードをとっていたが、対する塾のスタンドでは学生服を身につけた小柄な塾生がひとりフェンスの上に立ち、あざやかな身振り で拍手や合唱をリードして満場の注目を集めた。予科二年生であった田村一雄である。田村はこの日の先発投手・宮武三郎と同じ高松商業出身で、そのときは正式な自治統制委員ではなかったが、にわか応援団長として突如塾生の前に出現し、みごとな采配をふるったのである。



田村一雄

 田村の指導のもと、神宮球場で塾生一丸となって歌う『若き血』の威力は絶大であった。三回裏に三番町田、四番山下の打棒が炸裂(さくれつ)し、一挙に三点を奪った際に塾生は総立ちとなり、「陸の王者慶應」の歌声が神宮球場全体を揺るがした。結果、第一線は6−0で圧勝、つづく第二戦も3−0で完封し、みごと早稲田を連破した。おりしもこのシーズンには慶早戦がラジオで初めて実況中継され、塾野球部の活躍のみならず『若き血』の歌声もまた全国に流れた。それを聴いた浅田飴の創業者・堀内伊太郎は、息子の敬三が音楽を職業にすることをはじめて正式に許したという。

 昭和二年秋の慶早戦を契機として腰本監督率いる塾野球部は黄金時代を迎える。水原茂、町田重信、宮武三郎、山下実……。当時のラインナップをふりかえって後年、作詞家・藤浦洸は「いまの巨人よりずっと強かった」としばしば語っていた。

 新応援歌の威力に気をよくした予科会が翌年、菅原明朗、青柳瑞穂のコンビに作詞作曲を委嘱して『丘の上』を作ったところ、秋のリーグ戦で塾はなんと十戦十勝の完全優勝をなしとげた。このシーズンから正式に応援団長を任された田村一雄は慶早第二回戦終了後、塾生を前に万感の思いをこめて叫んだ。

「沈黙!静かに勝利の喜びを噛みしめよう。肩を組んで、丘の上!」

 十戦全勝の快挙を記念して、今日でも『丘の上』は「勝利の歌」として慶早戦に勝ったときだけに歌われるようになった。

 田村一雄はスタンフォード大学に留学している友人からフットボールの応援の資料を取り寄せ、「ワルツ拍手」「タンゴ拍手」「サイレント・イン・ウェーブ」など、年々新しい趣向を考案した。また、つねづね宮武選手らと意思疎通を密にし、「応援は選手や相手校の心理を科学的に分析した上で、場面場面に応じて使い分けなくてはならない」という持論を実践していた。たとえば早稲田側に『都の西北』を先に歌わせ、声が低くなったころあいを突いて塾が『若き血』を勢いよく七回連続して歌って相手の戦意をくじく---というように、単に挙動が鮮やかなだけでなく心理的戦術で神宮を沸かせる田村は、塾内のみならず全国の野球ファンに名を知られる存在となった。



昭和52 年若き血50 周年ラリー

 昭和五十二年(一九七七)五月、『若き血』の誕生五十年を記念した慶早戦前夜祭(ラリー)が東京体育館でおこなわれ、堀内、田村、菊池ら当時の関係者が舞台に揃った。席上、慶應義塾は堀内に感謝状と銀のユニコン像をデザインした楯を贈呈した。その六年後に没するまで、堀内はその楯をつねに身近に置いて晩年の日々を過ごした。あまたの名誉を得て昭和の音楽界に君臨した堀内敬三にとっても、この一曲は格別な存在だったのである。