戦前の応援団と応援部(明治・大正〜昭和19年)

応援部の創立


 昭和のはじめ、東京六大学リーグ戦はスポーツ界最大の行事となった。わけても慶早戦は華々しく注目を集め、ケンブリッジ大対オクスフォード大のボートレース、ハーバード大学対エール大学のフットボールと並んで世界三大学生競技にあげられるようになった。

 昭和四年(一九二九)十一月にはリーグ戦終了後、特に天覧慶早戦がおこなわれ、塾はみごと12−0で勝利を収めた。両校の熱戦がラジオを通じて全国の野球ファンの血をたぎらせ、新国劇が『早慶決戦の日』なる芝居を新橋演舞場で上演、『若き血に燃ゆる者』という映画が帝国キネマによって製作され、やがては「早慶戦」という演目で大阪の漫才師・横山エンタツ、花菱アチャコの人気が全国的に沸騰し、今日の吉本興業の基盤を固める。もはや慶早戦は学生スポーツの域を超えた社会現象であった。こうして多くの注目を集める中、塾の応援団は田村一雄を団長に纐纈忠行、赤塚盛、中島正義、藤井素介らのメンバーが団結し、ワグネル・ソサィエティのメンバーの協力を得て組織したブラスバンドをスタンドに入れたり、赤青の房のついた紙筒を配って人文字を作るなど、シーズンごとに応援方法が進化していった。

 しかし、応援方法が年々派手になることを憂える関係者も多かった。また、六大学の一部に学生を統制せずに煽るだけのゴロツキ応援団、入場券を横流しするダフ屋まがいの応援団が横行しているのを憂える声もあった。

 昭和六年(一九三一)、春の慶明二回戦で明大の八十川投手のボークの判定にからんで紛糾が起こり、試合終了後明治応援団が慶應側に襲いかかるという不祥事が勃発し、各界から強い批判を受けた。慶應は被害者であったものの、塾当局は当時すでに「応援団」と称されていたグループの幹部に、こうした不祥事を生む学生らしからぬ空気を一掃するよう自粛をうながした。

 ところがその年の十月、日本ビクター蓄音機株式会社が両校の応援団とJOAKの松内則三アナウンサーの慶早戦模擬実況をレコードで販売しようという計画を立て、塾の応援団が吹き込みをおこなった。さらに一か月後、讀賣新聞社の招きで来日した米大リーグの選抜チームが塾野球部と試合をおこなった際、応援団は塾当局の制止も聞かずにブラスバンドをまじえて派手な応援を敢行した。

「爛熟(らんじゅく)せる林檎は腐敗する如く、爛熟せる文明は堕落す」。今や爛熟の域に到達せる義塾応援団は将(まさ)に其の存在意義を失はんとしてゐるかの如き観がある。(中略)現在の義塾応援団は選手を応援してゐるのか、ヂャアナリズムの宣伝に乗せられて踊つてゐるのか、我々は其(そ)の判断に苦しむ。
--- 「法学会誌」第四号


 かくして十一月二十一日の学会連合委員会(文学部会、理財学会、法学会、政治学会、三四会、予科会、高等部会で構成)は「技巧的応援絶対反対」「応援団は連合委員会の統制に従ふべきこと」の二項目を決議して応援団幹部に通告した。

 さらに翌昭和七年三月には文部省が訓令「野球の統制並施工に関する件」を発して学生野球の行き過ぎを是正しようとした。

 同じ月、中国大陸では関東軍が満州国を建国する。軍部の強圧の時代がはじまりつつあった。

 逆風の中、神宮を沸かせた名団長・田村一雄らが卒業する。この期に及んで塾応援団も改革の動きを示した。従来恒常的な組織でなかった応援団を「自治整理会」という名称で正式に学会連合委員会の傘下に置き、幹事長のもとに総務部、リーダー部、交渉部、企画部、整理部に分けた組織を作った。幹事長には田村らの薫陶を得た予科二年生の柳井敬三(文12卒)が就き、山田耕筰作曲、堀口大學作詞の新応援歌『幻の門』を押し立てて慶早戦に快勝した。

 しかし、自治整理会(旧応援団)と各学会との反目はまだ解消しておらず、旧応援団の中の武闘派めいた者たちの言動に眉をしかめる学会幹部も多かったため、秋のシーズンはじめには自治整理会は早くも解散して学会連合委員会が一切の球場整理をおこなった。だが、無経験と統率力の欠如から混乱を生じ、塾生からの評判はすこぶる悪かった。

 そんな状況のもと、翌年には応援団のなかの清純派といわれるグループが立ちあがり、各学会を説得して柳井敬三を中心とした新しい組織を作る了解を得た。新体制の慶應義塾大学応援部は従来のように野球シーズンにそのつど結成されるのではなく、常設の学生団体として、野球にかぎらずあらゆるスポーツの応援をおこなうこととした。

 ときまさに慶應義塾創立七十五年目の節目の年でもあった昭和八年(一九三三)、十月十一日午後三時、新たに誕生した応援部の面々が三田の大ホールに集って発会式をおこない、幹事のひとり宮本董之亮(法11)が以下の声明文を高らかに読みあげた。

 慶應義塾応援部がこゝに発会式を挙行しその陣容を整ふるに当り、わが部は塾祖福澤先生に依りて確立せられたる遠大なる塾是を体し、全塾生の独立自尊の精神を尊重し、その総意に則りて統一ある節制ある進退に出でん事を声明せんとするものなり。進歩せる近代国家が非常に強固なる統制力を有するは、惟(おも)ふに各人の自尊心と独立心を尊重し闊達敢為(かったつかんい)の国民を基礎として、その上に諸般の機関を構成すればなり。個人の自尊心と独立心を抑圧するは時代錯誤の見解なりといふべし。斯(かく)の如き時代の趨勢(すうせい)に鑑(かんが)み我が部は内に君子の交(まじわり)以て互に切磋琢磨し、外に一丸となりて敏活の行動に出でんとす。固より我が部の目的たるや学生スポーツの健全なる発達を計らんとに当り、その目的に則して伝統ある本塾体育会各部の他校との競技において応援並びに整理を行ふものなり。今や絢爛たるスポーツの豪華乱れ咲くの秋、応援部を設立す。希はくば爾今倶(じこんとも)に一致団結して一片一磨の意気を把持し、以て塾祖の精神に沿はんとす。右声明す。

 右の声明文、要約すれば、「応援部は福澤精神にのっとり、その自尊心、独立心を尊重した上で社中各人を統制し、塾体育会の諸競技で応援、整理をおこなう機関であります」という宣言である。応援部は人目を惹くためのエンタテインメント集団でも、根性や気合だけで成り立つ精神修養団体でもない。独立自尊の気概を持って社中の人々に奉仕し、競技場の声をひとつにまとめあげる専門集団こそ慶應義塾の応援部である---この創立の理念を、七十五年後のいま、あらためて現役、OBともどもで噛みしめたい。

 創立時の応援部は七つの学会から各二名、体育会の柔道、剣道、端艇、相撲など各部からの推薦者によって構成され、学会連合委員会から拠出される六百円の予算を経常収入として活動することとなった。発会式の記念写真には柳井幹事長のほか副幹事長の戸田修(医11)、旧応援団の宮本董之亮、白石鐵馬(文13)、競走部から村部悳三郎(文13)、剣道部から馬場正雄(文12)、アイススケート部から亀井信吉(文12)、柔道部から塩田雄一(高11)、田中良平(政12)、毛利松平(政13)らの顔が見える。

 さて、これまでの応援団は現役学生の団長が最高責任者であった。だが、塾の正式な学生団体として活動するためには塾の教員が部長に就かなければならない。当時、応援部に出入りしていた吉田末次郎なる人物が応援部幹事らに強力に推した候補がいた。意外にもそれは三田キャンパスの教授ではなかった。医学部教授の加藤元一である。


応援部発会式