戦前の応援団と応援部(明治・大正〜昭和19年)

加藤元一教授応援部長に


 新宿区四谷四丁目---地下鉄四谷三丁目駅と新宿御苑駅のちょうど中間、新宿通りに面した場所に曹洞宗長善寺、通称笹寺(ささでら)がある。その境内の一角、「蝦蟇塚(がまづか)」なる石塔があり、台座にはなんと義塾のペンの徽章が彫ってある。塚の右側の碑文にいわく「慶應義塾大學醫學部生理學教室ニ於テ實驗ニ供シタル諸動物供養ノ爲ニ之ヲ建ツ昭和十二年五月 醫學博士加藤元一 門人一同」と。

 京都帝大医科大学出身の生理学者、加藤元一が塾医学科予科の創設と同時に着任したのは大正七年(一九一八)のことであった。加藤の研究テーマは神経を興奮がどのように伝わっていくかのメカニズムである。研究のために、教室の一同は昼は東京近郊のあちこちでカエルを捕獲し、夜になると数ミクロンの神経繊維をカエルから摘出して日々実験にいそしんだ。その実験を支えた数万匹のカエルたちを供養するために、加藤と弟子たちは医学部に近い笹寺に蝦蟇塚を建立したのである。


加藤元一教授

 加藤元一は明治二十三年(一八九〇)、二月十一日、岡山県新見町(現在の新見市)の眼科医の家に生まれた。次男であったが紀元節に生まれたので元一と名づけられ、幼いころから近所で評判の腕白坊主で「シオカラ(腕白)ゲン」と渾名された。勉学に励み、スポーツを愛し、一高を経て京都帝大卒業時には銀時計をたまわった。

 三十七歳にして帝国学士院賞を受賞し、ついには二度もノーベル賞候補になるほどの天分を持った学者であると同時に、加藤は熱烈な愛塾心を生涯胸に抱いていた。その背景には以下のような事実がある。まだ三十代のうちに続々と論文を発表し医学界の泰斗と世の注目を集める加藤の活躍を帝大閥の医学者たちはやっかみ、なかなかその業績を正当に評価しようとしなかった。一方、塾医学部を創始した北里柴三郎は加藤を温かく見守り、藤山雷太はじめ塾出身の財界人たちは、海外で生理学会が開かれるたびに経済的支援を惜しまなかった。

 そんな加藤に、昭和八年(一九三三)、晴れて正規の組織となった応援部の部長就任を委嘱したのは当時の林毅陸塾長である。「あなたは野球が好きだし、家も神宮に近いから、慶應らしい応援部を作ってほしい」と。

 そのとき加藤は四十三歳、ローマで開かれた学会で研究発表をおこなった直後で、学者として脂の乗りきった時代である。毎夜遅くまで研究室に灯をともして実験をつづける世界的生理学者が応援部の顧問に就任することを、塾内でも突飛に思う者がいたという。しかし加藤は当時の応援部幹部の塾生たちに会い、こう尋ねた。

「この部は慶應義塾のために役立つかね?」
「はい、もちろんであります」
「よろしい、それなら引きうけよう」

 やりとりの場にいた白石鐵馬(松本好生)は、「簡潔にして小気味のいい、男の然諾であった」と書き遺している。

 以来、三十年の長きにわたり加藤は応援部長をつとめて部員らを鞭韃し、たくさんのエピソードを残した。慶早戦が神宮でおこなわれる日には、信濃町の校舎に残っている塾生がいると、なぜ神宮に行かないのかと注意して回った。また、応援部員たちにはつねづね、「ファウルボールを拾う部員になれ。ファウルボールを拾う尊さを知れ」と諭した。

 加藤の長男で、同じく塾医学部の研究者となった加藤暎一は二〇〇六年に惜しくも鬼籍に入ったが、生前、父親についてこう語っている。「自分が野球が好きで慶應が好きだとなると、ほかのみんなも慶應が好きで野球が好きだと信じて疑わないんですね。スポーツを愛する者に悪いやつはいな---と。そういうひとでした」

 昭和三十二年(一九五七)、加藤は入学式で教職員代表として新入生歓迎の言葉を述べた。「君たちの中で、ある者は必ずしも慶應が第一志望ではなかっただろう。しかし、君たちが慶應に入って良かったと思うのは、早慶戦の応援に行って、『若き血』を歌い、勝って肩を組んで『丘の上』を歌うときだ。もしラッキーだったら、三田の山まで提灯行列をして、またビールを飲んで肩を組んで応援歌を歌う。そのときに初めて慶應に来てよかったと思うだろう」

 余談だが、加藤は慶應義塾とスポーツに加え、酒を愛することにおいても人後に落ちぬ豪傑であった。研究室の実験材料を保存する冷蔵庫には酒瓶が常備され、晩年、慶應病院に入院中も、「前の三河屋に加藤の注文だといって酒を届けさせろ」と言い張って医師らを当惑させたという。学究にして豪放---いかにも明治生まれの男らしい逸話である。

 加藤元一は昭和五十四年(一九七九)に八十九歳の天寿をまっとうした。故郷新見市の雲居寺にある墓所の線香立てはペンが交叉した形にデザインされており、墓石には生涯の研究テーマであった神経不減衰学説にちなんで「不減衰」の文字が彫られている。