戦前の応援団と応援部(明治・大正〜昭和19年)

水原リンゴ事件


 昭和七年、早稲田大学では、創立五十周年を記念して、長さ二尺(六〇センチ)足らずの銀製の指揮棒が田中穂積総長から応援部に贈られた。

 翌年、慶應義塾応援部にも林毅陸塾長から正式な創部を祝して指揮棒が授けられた。指揮棒は長さ六尺(一八〇センチ)余りの樫材の先端に岩の上で羽ばたく金色の鷲が彫刻され、岩には塾長の筆になる「自尊」の文字が彫ってあった。



指揮棒を持つ柳井団長

 その指揮棒を持つ柳井敬三は正式創部の前から足かけ五年にわたって団長をつとめた。下級生のみならず先輩たちからも人望があり、毎試合の前には下宿で斎戒沐浴し、香を焚いて気持を鎮めてから神宮に向かったという。

 創部から迎えた最初のシーズン、昭和八年(一九三三)秋の慶早戦、塾応援席にはワグネル・ソサィエティ部員らの協力を得て五十名の吹奏楽団が参加、試合前には日本ビクターからプロ・デビューした人気歌手・藤山一郎が塾生の前で美声を披露し、立錐(りっすい)の余地もない盛況となった。試合中はマイクロフォンを用いた応援指導がスムーズにおこなわれ、声援の要所要所で団長が指揮棒をさっと天に振りあげれば金色の鷲がキラリと光る。塾の応援の華やかさは早稲田をはなから圧倒した。

 しかし好事魔多し。慶早第三回戦がおこなわれた十月二十二日、誕生したばかりの応援部は大きな問題に遭遇した。いわゆる「水原リンゴ事件」である。

 試合も大詰めの九回表、スコアは8−7で早稲田が一点リード、両校応援席の空気はいやが上にも張りつめる。また、その試合では審判の判定をめぐるトラブルがあいつぎ、球場には不穏な空気が醸されていた。早稲田の攻撃がはじまる寸前、三塁の守備についた水原茂の周囲に食べかけのリンゴやナシがいくつか転がっていた。現代のように多様な菓子類が売られていなかった時代、球場の売店では果物を売っていた。ちなみにそのときの応援席は通常のリーグ戦と同じく先攻チームが三塁側、後攻が一塁側であった。

 これでは守備の邪魔と、水原は果物の切れ端を丹念に拾い、グラウンドの隅に投げ捨てた。そのうち早稲田の応戦席から水原めがけて大きなリンゴが自分めがけて足もとに飛んできた。客席に背をむけた姿勢で、水原はすぐさまリンゴを客席に投げ返した。その行為がのちほど大事件に発展するとは、まだ誰も思っていない。


昭和8年、初めてスタンドに人の形あらわる

 最終回、早稲田は先頭打者を塁に出すも追加得点ならず、慶應の攻撃となった。『若き血』がたてつづけに熱唱される中、ノーアウト二塁三塁のチャンスに井川喜代一が左中間にヒットを打って走者ふたりが生還、劇的なサヨナラ勝ちで塾応援席は歓喜に沸いた。

 だが、逆転負けした早稲田応援席は気分が収まらない。試合終了と同時に早稲田応援席から羽織袴を着た男がグラウンドに飛び降りた。早稲田野球部員が男を制止する間に塾野球部員はただちにベンチから地下道に避難し、車で合宿所に引きあげて難を逃れたが、慶應応援席が勝利の『若き血』に酔うのを見て、さらに数十人の学生が「水原謝れ」と叫びながら慶應側応援席に向かってきた。彼らはフェンスの上で応援歌の指揮をとる柳井団長の足もとに群がって引きずり下ろそうとしたので、柳井は反射的に学生たちを指揮棒でこずいた。すると暴徒のひとりがさらに激昂して指揮棒にすがりつき、フェンスの上と下で指揮棒の奪い合いになり、ついに指揮棒は鷲の部分だけ柳井の手に残して折れてしまった。

 樫材の部分を奪った男はさらに棒を膝に当てて折り、勝ち誇ったようにグラウンドを駆けまわった末に群衆の中に姿を消した。

「指揮棒を返せ」
「水原が謝ってからだ」

 興奮はスタンドの全学生たちに伝染し、グラウンドに降りる学生があいついだ。一触即発の事態に四谷警察署長以下二四〇名の警官隊が出動し、両校応援部の尽力で最悪の事態は回避された。その後も球場事務室で柳井、土金、宮本らの塾応援部幹部は早稲田応援部幹部と善後策を話しあったが、解決策は見いだせない。交渉を打ち切ったあと、応援部幹部は野球部主将の牧野直隆(経9)および、加藤部長、槇智雄体育会理事とも協議の末、夜十時半にスポーツ精神を冒涜(ぼうとく)した早稲田はリーグを去るべし、との声明を発表した。ほぼ同じ時刻、早稲田応援部も水原の非を糾弾した声明を発表した。

 翌日の新聞は、この事件を単にスポーツの問題ではなく、社会問題として大きく取り上げた。大きな国民的関心を煽りつつ、慶應、早稲田両校は協議をつづけた結果、事件のちょうどひと月後の十一月二十二日に、早稲田側は総長が遺憾の意を表して野球部長が辞任、慶應側は水原選手を謹慎させることを発表し、リンゴ事件は一応の解決をみた。だが、早稲田応援部はリンゴ事件への対応が各方面から強い批判を浴び、大学当局の思惑や部内の対立も手伝ってほどなく解散に追いこまれる。一方、塾応援部は満座の目の前で指揮棒を奪われた不面目こそ大きかったものの、翌年の春季シーズンには新たな樫材に遺された鷲の彫刻を継いだ指揮棒が復活し、堂々と応援の陣を敷くことができた。

 なお、この事件が契機となって、慶早戦に限り塾の応援席は三塁側、早稲田の応援席は一塁側という今日までつづく方式が定着した。

 さて、以下に指揮棒に関する後日談を池井優著『東京六大学野球外史』(昭52・ベースボールマガジン社)から引用する。

直接の原因となった指揮棒の争奪者は誰か。これは早大生ではなかった。犯人・は当日早稲田が招待していた東都大学所属の某大学応援部の部員であった。指揮棒を奪ったものの長いものだけにそのままでは球場から外へ持ち出せない。三つに折って羽織の下に入れ秘かに持ち出したという。それでも気がとがめたものと見え折れた指揮棒は犯人・ともに満州に渡る。終戦で引き上げてくる時も三分の一は大事に日本に持って帰ってきた。(中略)OBの間で内交渉が続いた後、結局昭和四七年一〇月一九日、NHKのテレビ番組スポット・ライトを通じて返還式・が行われた。



リンゴ事件を伝える翌日の新聞

 右のような経緯で返還された指揮棒らしきものが部室の片隅にあったのを、昭和五十年前後卒業の応援指導部OBたちはかすかに記憶している。だが、歴史を語る貴重な物証であるという認識は誰にもなかった。今回創部七十五年記念行事にあたり、現役部員が部室をつぶさに点検したが、それらしきものはどこにも見つからず、指揮棒はふたたび杳(よう)として行方が知れない。

 もうひとつ、後日談をしるしておく。

 初代団長・柳井敬三は後年鐘紡に就職し、持ち前の責任感と克己心を見こまれて低迷した部署をつぎつぎと立て直し、経営中枢で活躍した。系列企業の社長になったときも社用車を断って徒歩で出社するなど、清廉厳格な人柄は終生変わらなかった。応援部時代のことを吹聴することはあまりなく、リンゴ事件について人に訊かれたときは、「ささいなことが、大げさに伝わってしまって」と照れ笑いしていたという。活躍の場が主に関西であったため、応援部OBの会合に顔を出すことはほとんどなかった。平成八年(一九九六)、享年八十一を以て柳井が神戸で没した際、いち早く霊前に駆けつけたのはリンゴ事件の際の野球部主将で、鐘紡の二年先輩であった牧野直隆(当時高野連会長)であった。