戦前の応援団と応援部(明治・大正〜昭和19年)

応援部の解散と自治統制会の発足


 昭和九年(一九三四)の春、前述のごとく早稲田大学応援部は解散したがほどなく大学当局の主導で体育会各部からの代表者で新たな応援委員会を組織した。かくして秋のシーズンに両校はふたたび華やかな応援合戦をくりひろげることとなった。

 慶應はマイクロフォンを用いて内野外野で連携した応援をおこなうとともに、新しい応援方法として紅白のハタキを振って『天は晴れたり』を歌い、スタンドはさながら紅白の菊畑のように見えたという。また、大三色旗を機体につけた飛行機を神宮球場上空で低空飛行させ、空からも応援をおこなうという大がかりな趣向で帝都の人々を驚かせた。翌十年には柳井団長の発案で現役応援部員・白石鐵馬(松本好生)が作詞し、白石の盟友である増永丈夫(藤山一郎)が作曲した『躍る太陽』が作られ、塾生の気分を大いに盛りあげた。新応援歌完成の際には当時都心で最大級の収容人数を誇っていた日比谷公会堂で「躍る太陽の夕べ」と題した発表会をおこない、柔道部から応援部に参加していた三井文男(政16)ら下級生が切符の販売に奔走した。当時は毎年慶早戦で新しい応援歌が発表され、試合に勝てば翌年もその歌は使用されるが、負けると以後その歌は歌われない慣例であった。


昭和13年頃、左から久留、三井、冨田。

 しかし、若き血の誕生・田村団長の活躍・応援部の正式発足と華やかにつづいた塾の応援活動も、昭和十一年(一九三六)春、団長・柳井敬三と副団長・戸田修が現役を引退し、国際関係が緊張を深めるとともに冬の時代を迎える。四月の予算編成にあたり、文学部会と三四会以外の各学会が自治会費収入減を理由に応援費の支出打切りを決め、つづいて体育会も応援部不支持を表明した。いままで予算超過がたびたびあったにもかかわらず柳井たち応援技術者が年々応援の趣向をスケールアップさせて内外の注目を浴びたことが、各学会や体育会の代表たちの眼には暴走と映ったからである。このような逆風に遭った応援部は六月に左記のような声明を発表し、自発的に解散した。

吾人は和こそ発達の第一義なれと節を屈し、仮初(かりそめ)にも斯(か)かる事態を招来せしめたる不明の責を執りて幹事は総辞任し、前記学会の指す処の点に関する責任者を除名して和合の誠意を披瀝(ひれき)し、尚「非あらば正さん、改むべきは何ぞ」と慇懃(いんぎん)談合を求むれ共、(中略)事茲(ことここ)に至るの已むなきに及べり。(中略)応援部は時に大衆の指揮者となるものなるが故に、大衆の信頼を失墜せしめらるゝが如き声明に出でらるれば、理由の信義を問はず、事の理非曲直を論ぜず、已に致命的のものなり。又何をか云はむ。吾が部の赴く処解散のみ。

 当方としては節を屈して妥協点を探そうとしたのだが、相手(各学会)はテーブルについてくれない。現実に悪いことなどしていなくても、一般塾生の信用を失って応援部はやっていけない。かくなる上は、潔く解散するのみ---という内容である。

 とはいえ応援部的な組織は必要だったので、学会連合の委員たちは同年秋のシーズンから自治統制会を発足させ、神宮における応援活動を手がけることになった。だが、いきなり素人が応援の指導をしようとしてもまなならず、初年度は神宮で充分な効果を上げることができなかった。そこで昭和十二年春のシーズンを迎えるにあたり、旧応援部で柳井団長の指導を受けた片田正武(医15)を中心に阿部達夫(医16)、横田曄(あきら)(医16)、池田亀夫(医17)らによって応援指導技術の鍛錬をおこなう自治統制会リーダー部が設けられた。メンバーに医学部塾生が多いのは、学会連合の中でも旧応援部の活動に理解を示していたのが三四会であったためで、もちろんこれは加藤元一教授の存在と無縁ではない。

 自治統制会リーダー部の活動に学会連合からの予算支給はまったくなく、すべて片田らの私費と三田町内などの塾応援部ファンの方たちからのカンパでまかなわれるボランティア団体であった。ときまさに大陸では日中戦争がはじまり、国内でもスポーツや歌舞音曲への風圧はさらに強まっていく。自治統制会も当局の指導で塾学生課の監督下に置かれ、部長格は学生課担当理事の三辺(さんのべ)金蔵教授であった。

 昭和十四年(一九三九)春、リーダー部の新しい同志に斉藤寛(医18)、加賀山明雄(法18)、榊幸男(法18)、村松一夫(高16)、椿朱明(高18)らが加わったシーズンの慶明戦の際、突然片田らの前に往年の名応援団長・田村一雄が姿をあらわした。田村は片田に自分の編み出した「無言の応援」(エール交換後、長時間にわたり塾生を無言に抑え、もうこれ以上黙っていられない頃合いに一気に『若き血』を連続して歌う)、「ウェーブ応援」(スタンドを三段に分けて大歓声とともに塾生たちが身体を左右に揺さぶる)などを伝授し、自治統制会リーダー部を励ました。ちなみにその後の慶早戦で「ウェーブ応援」を実践したところ、動揺した早稲田の南村三塁手が大失策を演じたというエピソードがある。

 翌年春、自治統制会リーダー部を支えた片田正武が卒業した。三田の各学会はリーダー部を時代に逆行する存在と見なして片田の薫陶を受けた斉藤、加賀山らを自治統制会から追放し、新たに学会連合の栗本英明(経16)をはじめとする各委員で応援指導委員会を組織した。だが、スタンドでの応援指導は学会委員たちの手に余り、結局は旧リーダー部で応援に携わった経験を持つ鈴木晃(医20)、野中英二(文25)、肥田野淳(経21)、吉沢幹夫(経19)らの予科会委員が慶早戦のスタンドで応援の指揮をとり、なんとか大過なく応援をおこなうことができた。