戦前の応援団と応援部(明治・大正〜昭和19年)

塾歌の誕生


天にあふるる文明の

潮東瀛(とうえい)に寄する時

血雨腥風(けつうせいふう)雲くらく

国民の夢迷ふ世に

平和の光まばゆしと

呼ぶや真理の朝ぼらけ

新日本の建設に

人材植ゑし人や誰



 右の旧塾歌を歌った経験のある塾員は、もうきわめて少数であろう。二十世紀を迎え、様々な分野で新たな気運が沸き起こっていた時代、塾の式典や卒業生が集まる席で出席の皆が歌えるカレッジソングが欲しいという塾生塾員の声に応え、新聞記者・角田勤一郎の作詞、ヴァイオリンの名手だった金須嘉之助の作曲による塾歌が制定されたのは明治三十七年(一九〇四)であった。当時、まだわが国に校歌を持つ学校はほとんどなかった。

 じつはこの塾歌が制定される前年の秋、慶應義塾寄宿舎記念会の席で塾歌が合唱されたとの記録が慶應義塾學報にある。どうやらこれは某塾生が合作で当時の「三田評論」に発表した『慶應義塾之歌』のことで、「尊皇佐幕将(ま)た攘夷沸くや鼎(かなえ)の乱世に」といった歌詞であった。いわば幻の旧・旧塾歌といえよう。

 時代は大正の御代に移る。大正十四年(一九二五)秋、十九年ぶりに復活した慶早戦に塾野球部が連敗したのをきっかけに、この際塾歌を刷新しようという声が起こった。おりしも関東大震災の復興期であり、塾内のみならず帝都全体にリストラクチャーの気風がみなぎっていたのである。大正十五年(一九二六)、塾監局は金五拾円の賞金をつけて新塾歌の歌詞を公募した。しかし与謝野寛(鉄幹)、小泉信三らによる厳正な審査の結果、八十五編の応募作品中採用にいたるものはなく、新塾歌制定は見送りとなった。

 その後もしばしば塾歌制定の動きは起こり、与謝野寛、折口信夫、佐藤春夫、野口米次郎などが作詞者の候補に挙げられ、いくつか試作がおこなわれたものの、決定にはいたらずに歳月が過ぎた。

 昭和十一年(一九三六)、塾歌制定委員会が開かれ、作詞を『福澤諭吉伝』『続福澤諭吉全集』などの編纂にあたっていた塾職員の富田正文、作曲を東京音楽学校(現・東京芸術大学)作曲部講師の信時潔に依頼することとなった。ふたりは昭和九年(一九三四)、福澤先生百年祭を記念して発表された『日本の誇』を作ったコンビである。

 五年近くの歳月を経てようやく塾歌は完成し、昭和十六年一月十日、福澤先生誕生記念会の夜、三田の大講堂で発表会がおこなわれた。

 作詞の富田正文によれば、歌詞の一番は戊辰戦争の混乱のさなかでもわが国学問の命脈を維持したのは福澤先生と十八名の塾生のみであったことを、二番は「愈究而愈遠」(学問は究めれば究めるほど遠く遙かになる)という福澤先生の言葉を、三番は学問の牙城を誇る者が負うべき責務と決意を謳ったものであるという。

 信時潔はヨーロッパ留学ののち数多くの歌曲を発表し、音楽教育にも邁進した音楽家で、没後四十年を経て近年再評価の動きが盛んになっている。もっとも有名な作品は日本放送協会の委嘱で昭和十二年(一九三七)に発表した戦時歌謡『海ゆかば』であろう。作曲家には好みのコード(和音)が必ずあり、それが作品に個性を醸す。ためしに慶應義塾塾歌と『海ゆかば』を同時に歌ってみると冒頭のコード進行が類似していることに気づく。

 荘重なメロディーの新塾歌を応援部員たちは特別なものと位置づけ、慶早戦のエール交換の際だけに歌うこととした。この伝統は戦後までつづいたが、明治、法政の応援団から「なぜ早稲田戦だけ特別扱いなのか」との抗議がたびたびあり、応援指導部内でも討議が重ねられた。かくして東京六大学応援団連盟の発足後、昭和三十二年(一九五七)の対明治戦で、はじめて本塾はエール交換で塾歌を歌った。以降六大学野球リーグでの試合開始、終了のエール交換は塾歌を用いることに統一された。現在でも七回のエールで塾歌でなく『若き血』が歌われるのは、かつてのしきたりのなごりなのである。