戦前の応援団と応援部(明治・大正〜昭和19年)

学徒出陣・最後の慶早戦


 塾歌の誕生した昭和十六年(一九四一)の春、応援をスケールアップさせていく旧応援団的気風に三田の各学会の委員たちはあいかわらず警戒の目を光らせており、自治統制会に入る資格は各学会の委員に限定されていた。ところがこの年、自治統制会リーダー部の流れを継ぐ、鈴木晃(医20)、吉沢幹夫(経18)、野中英二(文25)、肥田野淳(経21)に加え、江刺家眞(法19)、高木実(法19)、道正友(経19)、近江明(医20)、酒井三四郎(経21)、金丸平八(経21)ら、日吉の予科会委員が大量に自治統制会応援指導委員となったため、神宮では活気溢れる応援が展開された。予科会委員たちは自治統制会を去った旧リーダー部の斉藤寛(医18)、加賀山明雄(法18)らに好意的で、ひそかに彼らから応援技術の指導を受け、伝統ある塾の応援を維持することに努力した。

 思えば田村一雄の時代以来、さまざまな圧力に耐えながら応援の技術はつねに予科学生の「若き血」に支えられていた。前年に紀元二千六百年を記念して作られた応援歌『三色旗の下に』の「慶應、慶應、慶應……」の部分を肩を組んでくりかえす方法も、当時の若い委員が考案し現在まで引き継がれているものである。

 この年の十二月、ついにわが国は太平洋戦争に突入し、三田の山も神宮球場も戦雲の影と無縁ではいられなかった。翌十七年春のシーズンでは慶法第一回戦の試合開始直前に米空軍の東京初空襲があり、自治統制会委員たちは高射砲の音がとどろく中、幼稚舎生をはじめ多数の塾生の避難誘導に尽力した。また、敵性語の排斥により明治の末からつづいていた伝統のエール「ヒップ、ヒップ、フレー」の使用が禁止されようとしたが、三辺教授(自治統制会会長)の発案で「決起、決起、振るえ」と言い換えてエールは生き残った。自治統制会委員たちは新たに塾内に組織された報国隊の役員を兼ね、号令などもすべて軍隊式に統一された。重苦しい空気の中ではあったが、いざ野球の試合がはじまれば塾生たちは「若き血」をこころゆくまで歌い大いに青春を謳歌することができた。

 昭和十八年(一九四三)に入ると戦局は悪化し、塾生の大半は勤労動員のため授業を受けることもままならぬ状態になった。ましてや野球どころではなく、春のシーズンは開催不可能になった。六月には文科系学徒の動員令が発表され、塾生の大部分が十二月に召集されることになる。近く戦場に赴く慶早両校の野球部員や学生たちから、最後の思い出として慶早戦をぜひ実現したいという強い気運が湧き起こった。塾野球部主将の阪井盛一(法19)、マネージャーの片桐潤三(文19)らが野球部長・平井新を説得し、塾長・小泉信三の賛同を得て早大野球部OBの飛田忠順を通じて早稲田側に試合開催を申し込んだ。早大当局は世論を考慮して当初難色を示し幾多の曲折があったが、ついに交渉がまとまり、十月十六日にいわゆる「最後の慶早戦」が実現することになった。当時神宮球場は高射砲陣地や食糧増産のための畑になっていたため、場所は早稲田の戸塚球場と決まった。



「最後の慶早戦」終了後、戸塚球場にて整列する自治統制会委員たちと
永沢邦男法学部教授(中央)と羽磯武平学生部長(前列中央)

 試合当日、多くの塾生は徴兵検査を終えて実家に帰っていたが、慶早戦開催の報を聞き、自治統制会で応援指導にあたった在京者たちが久しぶりに集まった。戸塚球場の収容人員が少ないため、入場者は両校の学生に限定したが、入口の整理は困難を極めたが、金丸平八が戸塚署の警察官と尽力し、事なきを得た。とはいえ、試合がはじまってもスタンドに入りきらない塾生が場外に列をなしていた。彼らは最後まで帰ろうとはせず、球場から聞こえる球音や歓声に懸命に耳を傾け、『若き血』をともに歌った。試合中は小泉塾長も塾生とともに三塁側スタンドに新聞紙を敷いて座り、応援につとめた。結果は10−1の大差で早稲田に凱歌があがったが、勝敗は問題ではなかった。試合終了後、吉沢幹夫が指揮し、肥田野淳が塾旗を掲げるエール交換で、慶應の塾生が『都の西北』を歌い、早稲田の学生は『若き血』の大合唱で応え、ともに戦地に赴く若者同士の健闘を讃え、なによりもこのような慶早戦が実現した感激を万感の思いで味わった。そしてエールの最後、スタンドの一角から自然発生的に『海ゆかば』が湧きあがった。歌声は次第に大きくなり、ついには慶早両校全学生の合唱となって早稲田の杜にこだました。名残を惜しみつつ、『海ゆかば』が終わったあと、小泉塾長がさりげなく尻に敷いていた古新聞をポケットにしまい、席を立った。それを眼にした塾生たちはそれぞれ周囲の紙屑などを拾い集め、戸塚球場のスタンドにゴミひとつ残さずに解散した。



出陣学徒壮行慶早戦


 それから敗戦までの間、自治統制会リーダー部員として活躍した堀田重夫(医15)はじめ二千人を超える塾生、塾員が戦禍の犠牲となった。早稲田の友人たちもまた同様である。そうした方々の在りし日を想いつつ、三田の図書館脇にある彫刻「平和来」(朝倉文夫・作)に添えられた小泉信三の言葉をしるしておく。


丘の上の平和なる日々に

征きて還らぬ人々を思ふ




「最後の慶早戦」エールの交換