戦後復活(昭和20 〜 23年)

自治委員会 応援指導部の誕生


 昭和二十年(一九四五)八月、敗戦を以て戦火はやんだ。

 徴兵された塾生、あるいは各地の工場に動員されていた塾生がぽつりぽつりとキャンパスに戻ってきたが、三田山上で威容を誇っていた大ホールは見る影もなく崩れ落ち、日吉校舎は進駐軍に接収されていた。慶應義塾は全国の大学で最大の罹災校であった。

 消失した校舎に代わり三の橋の労働会館などの仮校舎で授業が再開したが、昼の食事をする場所もなく、塾生は薄い雑炊のみ提供する山食に行列を作った。敗戦による無力感、絶望的な食糧難で暗澹とした気分がつづく中、ほどなく一陣の涼風のようなニュースが流れてきた。慶早を中心にした六大学野球の選手たちの試合がおこなわれるとの報である。現役学生選手はまだ戦地から戻っていない者が多いため、選手はOBが中心だという。

 戦後初の六大学OB紅白戦は十月二十八日、神宮球場でおこなわれることになり、肥田野淳、金丸平八、村瀬敏郎(医21)など自治統制会時代に応援に携わり復員の早かった者たちがさっそく試合応援の準備のために集まった。困ったのは塾旗をどうするかである。戦前神宮球場で用いた塾旗は三田の校舎、OBの柳井敬三宅、田中良平(医12)宅に分散して保管されていたが、すべて空襲で消失していた(もう一枚、三井文男が家に保管していた外野用サブ塾旗は戦火を免れ、後日現役部員に返還された)。そこで、やむなく村瀬が四谷の医学部校舎で見つけてきた三畳敷の旗を応援に使用し、選手らに声援を送った。

 結果、塾の所属する紅組は敗れた。選手団も応援席もにわか作りではあったが、プロ野球オールスター戦復活に先立つこと五日、戦後初の公開野球試合であった。

 その後慶早両校の選手のみで野球を復活させようとの企画が進み、十一月十八日、神宮球場でオール慶早戦がおこなわれた。両校関係者と一般野球ファンでスタンドは四万五千人もの人々で埋まり、応援合戦も以前のとおり華々しく復活した。延長十一回の熱戦の結果6−3で慶應が快勝。塾生は敗戦後はじめての「丘の上」で大いに意気上がった。

 翌二十一年春、世相もやや落ちつきを見せつつあった。各大学とも学生の復員が順調にすすみ、待望の六大学野球リーグ戦が再開されることになった。ただし、神宮球場は米軍に接収されていた(前述の紅白戦、オール慶早戦は特例として使用が認められた)ため、上井草、後楽園の両球場が熱戦の場となった。まず四月にふたたびオール慶早戦が開催されたあと、つづいて五月、六月にかけて現役野球部員によるリーグ戦(各校と一試合ずつ)がおこなわれ、塾はキャプテン別当薫(政21)らの活躍で五戦全勝の優勝を遂げた。


 
昭和22 年、後楽園にて

   六大学野球の復活と軌を一にして、塾の応援部も新時代の出発にふさわしい新しい組織とメンバーで大きな飛躍を期す節目を迎えた。この年から「自由にして健全なる塾生自治の原則に従い、全塾生の総意に基づいて、塾生の学術研究と文化及び体育活動の伸長を図り、かつ塾生生活の発展向上に資する為、塾における塾生自治の意思を統合し、併せて慶應義塾の振興に寄与する」ことを目標に自治会が組織され、代表機関として文、経済、法、政治、医、工、医専、獣医、予科の各学会および、学術団体連盟、文科団体連盟、体育会の諸団体から二〜三名ずつ選出された委員による自治委員会が置かれ、その執行機関のひとつとして応援指導部が自治委員により結成された。部長にはあらためて加藤元一教授が就き、総責任者(団長)・相川新一(経22)、副責任者・野崎繁博(医22)をはじめ徳川泰國(文22)、和泉沢敬次郎(経22)、大越英治(法22)、五島岩四郎(経22)、小笠原昇(経22)、佐藤貞之(経22)、山本健一(経22)、貴島利和(工22)、本多寿一(工22)、茅野秀孝(医23)らが応援指導部発足当時の幹部であった。

 相川団長は舞踊家の西崎緑(初代)と交流があり、応援の振りに舞踊のリズムをとりいれ、ジェスチャーを大きく見せる技術に専心した。水戸藩徳川家の一族で元特攻隊員、後年はカトリックの司教というユニークな人生を歩んだ徳川はリーダー班責任者として華麗なテクニックを後輩たちに熱心に伝授し、後進の滝口登(獣医23)、大舘清次(獣医23)、予科の椎津康夫(経26)らもやがて応援席で華麗な拍手指導をおこなうようになる。

 リーグ復活のシーズンまでは医学部から借用した三畳の旗を応援に用いていたが、窮状を見かねたOBの尽力で鐘紡から塩瀬羽二重の生地が寄贈され、当時六大学最大の十二畳の大塾旗が完成した。棹と竿頭ができたときに揚げてみたところ、とうてい旗手ひとりで持ち上がる代物ではなく、たちまち重みで旗竿が折れてしまった。そこで新たに中空の竿頭を作り直し、紐で旗を左右に引っぱって固定する方法で掲げた。

 秋のシーズンは懐かしい神宮球場を使用することが許可され、二勝で勝ち点1の元通りのリーグ戦となった。リーグ戦最終盤の慶早戦は優勝をかけた対決となり、塾は十二畳の大塾旗をなびかせ、新応援歌『我ぞ覇者』を神宮の杜に響かせて試合に臨んだが、早稲田に連敗して惜しくも優勝を逃した。

 当時の応援指導部の特筆すべき重要任務は競技場の入口の管理、誘導である。六大学野球とりわけ慶早戦は戦前からの人気を引き継いで連日大観衆が押し寄せた。中にはピストルを懐に他大学のOBを名乗って入場を強要するごろつきがあとを絶たなかった時代、入口責任者をつとめた大越、小笠原らの苦労は近年の応援指導部員の想像をはるかに越えるものであった。

 もちろん野球場だけが応援指導部の活躍の場ではなく、昭和二十二年正月に再開した箱根駅伝では、トラックに乗った部員が九時間にわたり選手に声援を送った。学費値上げストライキを煽動しようとする左翼学生を抑止するのも応援指導部。また、当時各学生団体は資金獲得のために交詢社などでよくダンスパーティーを開いたが、そのような席で切符モギリ、場内整理、不心得者の闖入防止などにあたることもあった。このように「おおぜいの人員を整然と仕切る」スキルを塾当局も高く評価し、入学試験など塾諸行事の整理誘導などに応援指導部が活用されるようになる。こうした部外者との渉外の役目で大いに才を発揮したのがのちに塾の評議員になる五島岩四郎であった。

 応援指導部員の技術がみごとに実ったのが昭和二十二年五月におこなわれた慶應義塾創立九十年祭である。塾当局は戦災で受けた手痛い被害からの復興の手がかりとして創立九十年の記念行事を企画し、前年から大手企業、各地三田会から大規模な寄付を募った。応援指導部員たちは潮田江次塾長からのお墨付を携え、夏休み返上で全国を巡って募金活動に協力した。



創立90 周年

  五月二十四日、晴天の三田山上に私立大学としてはじめて昭和天皇をお迎えして記念式典がおこなわれ、ここでも応援指導部員が企画、警備などに大いに活躍した。陛下の行幸については「民主主義の世の中になったんだから私学にも……」とアイデアマンの五島が発案し、旧水戸家の徳川泰國が粘り強い交渉を宮内省におこなった結果実現した。式典ではまず潮田塾長の挨拶があり、早大・島田総長、塾員代表・尾崎行雄らにつづいて塾生代表の徳川が祝辞を述べたのち、天皇陛下から「福澤諭吉創業の精神を心として、日本再建のため一層努力することを望む」とのお言葉をたまわった。



創立90 周年記念祭の音楽行進。車上は、佐藤、五島、小寺

   この記念式典にからむ秘話をもうひとつしるしておく。

 塾当局は当時の正門である東門(幻の門)に慶應義塾の名を表すものがなにもないのを気にして、陛下の行幸直前、急遽木製の標札を掲げた。それを見た応援指導部の野崎、五島、小笠原、大越らは大いに憤慨した。慶應義塾正門は、看板がないからこそ「幻の門」ではないか。標札で見た目を飾るよりも中身の充実を期すことが福澤先生の精神。これではかえって天皇陛下に失礼ではないか……と。

 そこで深夜、五島らは幻の門に赴きいて木の香も新しい標札をこっそり持ち去り、旧幼稚舎グラウンドで割って燃やしてしまった。あわれ、標札はわずか一日校門に掛かっただけであった。さらに五島らは翌日、常任理事の永沢邦男のもとに出頭し、おのれの信条を正々堂々と開陳した。まさに確信犯ともいうべき五島らを永沢教授は苦々しい表情で一応叱責したが、それ以上のお咎めはなかった。他校であれば学校の顔ともいえる標札を火にくべてしまったら、放校処分を受けるであろう。だが、愛塾の直情を学務担当理事も密かに納得したところが、いかにも慶應らしい。

 翌二十五日には神宮外苑競技場(現在の国立霞ヶ丘競技場)で記念運動会をおこなったあと、外苑から赤坂、飯倉を経由して三田まで「音楽行進」と名付けられたパレードが挙行された。塾旗を先頭に騎馬隊がつづき、応援指導部員や吹奏楽団が屋根に乗った木炭車のあとを一般塾生が歌いながら行進していくという趣向である。行進する塾生の顔にも、見物する沿道の人々の表情にも、長年忘れていた笑顔が戻った。

 新生応援指導部の活動はまさに戦後日本の復興と軌を一にしていた。