応援指導部の財政的基盤を固めるべく、昭和二十二年(一九四七)春から、部員はグループ別に各地方の有力な塾員や企業を訪問して寄付を募った。関西方面を担当した総責任者(団長)の相川新一は、たまたま京都で同志社大学の応援団長と歓談する機会を得て、関西六大学応援団連盟の存在を知った。相川は六大学の各応援団、応援部が規律ある行動をとり、親睦を深めるために連盟設立の必要を感じ、帰京後ただちに各校にこの旨を申し入れ連盟結成の準備にとりかかった。
戦前から東京帝国大学には応援部がなく、他校が派手な応援をくりひろげていても学生たちはスタンドでただおとなしく試合を観戦するだけで、エールの交換もままならぬ状態であった。ところが二十一年に復活したリーグ戦春のシーズンで、帝大は慶應と優勝を争うほど健闘した。これがきっかけとなり、OBが淡青の校旗を贈った。旗を貰った野球部のマネージャーが弥生寮の中澤幸夫に相談し、秋のシーズンには旗を立て、中澤が即席のエールを指揮した。
東京六大学応援団連盟結成式。右から徳川、五島、大越、小笠原
かくして昭和二十二年、六大学の旗がそろった。その時期に慶早両校応援団長が南原総長を訪ね、六大学応援団連盟設立の目論見を語った。南原総長は目論見に賛同し、帝大運動会に中澤を中心とした応援部を正式発足させることになる。新応援部員には明治大学応援団が二週間応援技術の特訓をした。おりしもこの年、学制改革で東京帝国大学は東京大学と改称する。南原総長は多忙な日程をやりくりしてみずから連盟結成の準備会に出席した。会合で明大応援団長がたくわえている髭を見た南原総長があっけらかんと、「そういう髭は時代遅れだから剃りたまえ」と言い、団長が目を白黒させたという愉快な逸話も残っている。
たまたまその年は、六大学野球連盟で塾が当番校であったため、応援団連盟の規約の草案を慶應の応援指導部が作成することになった。思えば神宮に於ける学生応援団の歴史はリンゴ事件をはじめトラブルの歴史でもあった。また、弊衣破帽に髭をたくわえ、バンカラな気風で一般学生を威圧するのが応援団のイメージであった。新しい時代に誕生する応援団連盟は、旧態依然たる応援団の匂いを極力排除し、各校間のトラブルを未然に防止し、学生スポーツ応援のあるべき姿を具現化するものでなければならない。相川団長、野崎副団長、五島マネージャー、大越、小笠原、和泉沢、徳川らが三田山上の教室で規約草案を再三練った。ようやく仕上がった文章をまず早稲田の高岡良男団長に諮って賛同を得て、さらに東大・中澤団長にも根回しした。バンカラの代表格である明治、法政両校応援団は塾がイニシアティブをとって作った草案に反対する恐れが大いに予想されたため、相川らは立教・小藤武門団長に懇切な説明をおこなって了解をとりつけた。結果、4−2の多数決で塾の作った規約が承認され、南原総長を連盟会長に推戴することが満場一致で決まる。中澤団長から報告を受けた南原は会長就任を即座に快諾した。
かくして五月十九日、丸の内の中央亭に各校学長の出席を仰ぎ、東京六大学応援団連盟発足総会がおこなわれた。会場に足を踏みいれた者たちはまず、真っ白なテーブルクロスの眩しさに目を見張ったという。まだ街には飢餓感が溢れていた時代だというのに、明大団長の八巻恭介らが幹事役としてGHQなどを奔走し、豪華な料理や飲物が参会者に供された。
席上、南原連盟会長は「国は敗れ、大学は荒廃した。そこから復興するためにはスポーツが不可欠である。これまで応援団といえば硬派の集まりとしか思われていなかったが、これではいけない。新しい時代、紳士として各大学のリーダーシップをとるべきである」との趣旨のきわめて格調高い挨拶をおこない、一同を祝福した。
政治学者・南原繁といえばまさにこの時期、講和条約をめぐって吉田茂総理と対立し、総理から「曲学阿世の徒」と誹(そし)られたリベラリストであり、後年も学士院長など重職に就いた。そのような一流の人士が東京六大学応援団連盟設立にひとかたならぬ協力を惜しまず、いわば生みの親になった。こうした逸話に、加藤元一教授の部長就任と相通じる爽やかなものを感じる。
応援指導部員よ、今も未来も熱意と誠意で一流人の心を動かす塾生であれ---そんな思いがあらためて湧いてくる。