応援の近代化(昭和24 〜 29年)

 戦後数年にわたっては、塾生の復員・学制の変更があり、慶應義塾も応援指導部も過渡的な状況がつづいた。



昭和25年春、ラリー発案者高橋高見と当時の幹部

   高橋高見・武井久夫・右田勝彦・富山欣哉ら、予科二年で入部した部員は、予科を卒業して最後の旧制学部に入学したが、本来は三年間であった本科生活が半年短縮となり、昭和二十五年(一九五〇)九月卒業になった。塾当局は卒業後の就職を配慮して、就職が内定している塾生は、二十五年三月に仮卒業することができるように、九月に就職がまだ決定していない者は、翌二十六年三月に新卒として就職試験を受けられるという救済制度を設けた。

 徳永一郎・中村昭雄・石本孝郎・田口長四郎・椎津康夫ら予科一年で入部した部員は、予科制度最後の卒業生として予科三年を卒業して、新制大学の三年に編入、いわゆる学部生活は一年短縮されて二年間となり、昭和二十六年三月卒業ということになった。

 様々な年齢、経歴の塾生が混在する状態のなか、昭和二十四年春以降の応援指導部は、二十五年九月卒予定・二十六年卒業予定のメンバーを中心に活動することとなる。

 戦後三年を経過した当時、日本全体の気質・気風が急激に変化し、とりわけ洒落者の多い慶應義塾ではそれが顕著であった。そうした中で応援指導部はどう改革すべきか、部員たちの間で真剣な議論が交わされた。

 部員たちはまず、「塾生として授業に出る・成績重視を基本とし、学校内での行動に注意を払う」ことを申し合わせた。

 そのころ、三田で最終時間の授業中、新館の屋上で練習をしていた応援指導部員のフレーフレーの声が聞こえてきて、教室が爆笑の渦となったことがあった。以来、部員たちは練習を自宅でおこなうこととした。

 また、三田町内での行動も塾生の見本となるように充分注意した。当時は責任者の高橋高見(経25秋)をはじめ部員に麻雀好きがそろっていたが、学校の近辺では絶対に遊ばず、どうしてもやりたいときは金杉橋まで出かけた。

 さらに、先輩たちとの関係も、極力非礼のないようにするものの、時代の趨勢によって応援や応援部が変化するのは当然のこと。伝統を盲信することは避けようという、毅然とした態度を貫くことにした。自分たちが卒業したのちも、野球場などに行けば必ず干渉したくなる。したがって卒業後は野球場、OB会等に出席しないことを申し合わせた。

 革新的な応援指導部幹部たちの気運を、部長の加藤元一も支持した。こうして数々の新機軸が実現する。部員たちは、慶応らしい新時代の応援・話題性の実現について、藤山一郎、平岡養一、藤浦洸らの慶應OBたちに相談した。中でも、世界的木琴奏者で海外生活が長く、アメリカンフットボールについても知悉していた平岡養一のフットボールの応援の話が、部員らに大きな影響を与えた。



「丘の上」を歌う平岡養一

 アメリカの大学には、カレッジフットボールのビッグゲームの前夜祭として学生たちが大いに気勢をあげるラリー(RALLY)というイベントがあるという。

 そこで高橋高見らが決断し実行したのが、慶應ラリー(慶早戦前夜祭)である。





第一回ラリー プログラム



部オリジナルのバックル

第一回 慶應春のラリー概要

場所  芝スポーツセンター

日時  昭和二十五年五月二十一日

日時  午後一時〜四時

入場料 二十五円


 当日、会場の芝スポーツセンターは、白井義雄のボクシング世界チヤンピオン戦以来の超満員となり、ダフ屋が出て大変な人出となった。


昭和25年5月21日第一回慶應春ラリー芝スポーツセンター

 その年は徳永一郎(政26)を中心に、秋にも三田山上でラリーが企画され、応援指導部のブラスバンドのお披露目の場ともなった。

 それまでは、文連に依頼して応援歌の伴奏をするバンドを構成していたが、この際ぜひとも応援指導部に自前のブラスバンドを作ろうということになり、体育会、文連などにも根回しをして予算を獲得した。

 楽器購入に際しては、当時、物品税制度(税率百%)があり、義務教育用ならば免税という制度があったため、中等部の備品ということの許可を得て、無税でブラスバンド用楽器一式を銀座の日本楽器から購入した。

 部員もなんとかそろい、指導には東京消防庁音楽隊々長の内藤清五(元海軍中央軍楽隊)があたった。



昭和25年秋、デコの製作はパレットクラブに依頼した(写真提供/稲村昭二氏)

 神宮球場のスタンドに掲げる大看板の図案にミッキーマウスを考案したのも、この時代のことである。早稲田のフクちゃんに対抗できる図案について、中村昭雄(経26)が藤浦洸から、稲(早稲田)を食べてしまうのは鼠だから、ミッキーマウスはどうだろうか、というヒントを得た。

 アメリカでのミッキーマウスの印象はどうなんだろう。一度平岡先輩に聞いてみようということになり、平岡静子夫人(アメリカ生まれアメリカ育ちの二世)に伺ったところ、「スマートでシャイな感じは慶應に合うかも知れない」とのこと。早速これを慶應応援席のマスコットとして採用することを決定した。

 さらに、慶應らしい応援を演出するために、高橋がスクールカラーを配したデザインのセーターを発案し、エール交換のあとは、試合中これを着用しようということになった。

 未だ物資の乏しい時だったが、高橋は自分用に手編みでブルーの地に三色のセーターを作ってきた。ほかの幹部は白地に三色とすることにし、椎津康夫(経26)が内外編物に交渉し、セーターを寄付してもらうことにした。ついでにズボン・靴は白で統一しようということになり、大いに苦労を重ねて調達した。

 セーターは昭和二十五年春季慶早戦より使用された。試合前、かねて打合せのとおり、高橋団長を除いたリーダーは、全員セーターを着用し、事前には判らないように学生服をまとって最前列に待機。応援合戦のはじまる直前、一斉に学生服を脱いでセーター姿となり、満座の注目を惹いた。

 戦争を機に、慶早戦のあと塾生たちが銀座で気勢をあげる習慣は途絶えていたが、それもこのころから復活した。

 応援指導部員は、あらかじめ塾当局の財務理事から依頼状をもらい、それを持ってライオン、ミュンヘン、ニュートーキョーなどのビヤホールに主旨を説明し、協力を得た。また、銀座商店街をまわり、ショウウインドウに小旗を飾ることをお願いした。

 これらの準備を完了し、神宮球場で試合後、応援席の学生に「銀座で会おう」と呼びかけて、各ビヤホールに部員を配置した。

 多数の塾生が銀座に参集して気勢を上げたが、通りがかりの塾の先輩も合流し「俺は○年卒業だ。ジョッキ十杯を提供しよう」などと社中の交流が大いに盛り上がった。



昭和26年6月12日慶早2回戦