文 ・ 小泉信三
野球の序でにもう一つ。
野球に限らないが対校競技の応援学生で、味方の旗色が好いと騒ぎ、悪くなると、ゾロゾロ帰りかけるものがいる。いかにも頼もしくない仕業である。競技の応援など、どうでも好いことで、野球の応援者のみが愛校者でないことは、いうまでもない。けれども、来なければ兎も角、来て応援をしながら、旗色の次第によって、友を卑怯に見捨てて去るというその料簡には、何か誠実を欠いたものがあるように思われる。これは私だけがむずかしく考えるのかと思うと、決してそうではない。
戦前の或る時、アメリカ法学会の泰斗(たいと)として尊敬されていたウィグモア博士と、東京で一緒に野球仕合を見たことがある。この人は、六十余年前、慶應義塾が初めて大学部を設けたときに、招聘(しょうへい)されて来て、その法律科の主任教授となったのであったが、殆ど半世紀を隔てて再び来朝した。慶應にとっては、謂わば塾賓のようなものであるから、私は毎日のように方々随(つ)いて歩いた。野球が好きで、昔、横浜外人ティイムのショオトもやったということであったから、或る日、神宮外苑の試合に案内した。ところが、丁度この老博士の見ている前で、旗色の悪くなった方の学生が立ってゾロゾロ帰りかけた。博士は苦がり切ってしばらくそれを見ていたが、独語のように、「faith(信)なきものは去って行く」といった。それは正に私の言わんと欲するところであった。
仮りに海上で船に浸水が起り、乗員一同ポンプに取りついて排水に努めているとする。排水は成功するかも知れず、しないかも知れぬ。この時、機を見るに敏、もしくは過敏なるものがあって、仲間の心づかぬを幸いに、その男がボオトを卸したらどうであろう。更に排水が成功して、船が助かったとき、その男がまたボオトから本船に乗り移ろうとしたらどうであろう。勿論船の排水と、野球の応援とは同じでない。けれども同じく友を非境に見捨てて去るところに、或る共通点があるとはいえるであろう。ウィグモア博士が「信(フェイス)なきもの」といったのは道理である。
先頃の新聞に、東ドイツで、先年までナチ党員として最も先きに立って旗をふり廻した連中の或る者が、今日は、最も花々しい共産主義者として、やはり先きに立って旗を振っているということが書いてあった。仮りにそれが事実であるとし、更に同じく仮りにこの連中が野球の応援に出かけたとしたら、やはり味方の旗色が悪くなると、早く席を立って引き上げる仲間であろう。
日本の思想界にもその例を求めることは難くない。
(「文藝春秋」昭和28年1月号)